ブルーヴァンパイア寓話「薄闇から聞こえる賛美歌」
街のはずれにある、古い洋館。
館の壁には薔薇のつるが絡まりつき、錆びついた鉄の門はいつも固く閉ざされていた。
「…誰も、住んでないのかな…ここって」
月の光に蒼く照らし出される洋館を見上げる。
「だけど…きれい。ちょっと…入ってみようかな」
誰に、言うともなく呟いて、鉄の門に手をかけた。
ぎぎぃーと軋んだ音を上げて、門が左右にひらかれる。
門の先にある広い庭には、丈の長い草が生い茂っていた。
「やっぱり…誰も、いないのかな」
そう思って足を踏み出して、ふと気づいた。館へ続く道なりには、わずかに草を踏み分けたような跡があった。
「なんだか、けもの道みたい…」
少し不安に思いながらも、館の扉へとたどり着く。
「誰か…いますか?」
薔薇のつるが絡みついた扉の取っ手を強く引いて、中をのぞき込んだ。
扉の奥は、真っ暗だった。
「誰も、いないのかな…」
口にした時だった。
「…誰?」
ふいに、女のひとの声が聞こえた。
「えっ?」
あわててあたりを見まわす。
だけど、真っ暗で、誰の姿も見えない。
「誰なの?」
私は、同じように聞き返した。
「…私は、ここの住人…あなたは、ここへ、何しに来たの…」
もの静かで、穏やかな声が戻ってきた。
「ここに、興味があって…ごめんなさい。突然、おじゃましたりして…」
「興味……そう」
ここの住人だというその人は、なぜだか哀しげに言葉を切って、それから一言、
「だけど、帰った方がいいわ…」
と、告げた。
「どうして…? 私、こんな素敵な洋館に住んでる方と、お話がしてみたいの」
「……。あの時と…同じなのね…」
ふっとため息を吐く音に続いて、「…きっとあなたも、帰ってと言っても、帰らないのよね…」そんなひとりごととも取れる呟きが聞こえた。
「いいわ…そこにいて。今、そこへ行くわ」
真っ暗な中につっ立って待っていると、「…いらっしゃい」と、ふいに手を握られた。
冷んやりとした、とても冷たい手だった……「さぁ、ここにソファーがあるから。ここに、座って?」
肩を抱き手を取って、そっとソファーに座らせてくれる。
「ワインを…飲む? 少し、濃いけれど…」
聞かれて、「えっ、ええ…」と、反射的にうなづく。
暗闇の中で注いだワインを、その人は私の手に握らせてくれた。
細い、しなやかな指……だけど、体温がないみたいに冷たい手……。
「…どうかした?」
聞かれて、私はびくりとした。「う、ううん!」と、あわてて首を横に振る。
「そう…。さぁ、ワインを飲むといいわ…」
「ありがとう…」
私は、ワインを一口飲んだ。
なんだかとても濃くて、どろりとしたような飲み口だった。
「濃い味……」
「……嫌い?」
「う…ううん。嫌いじゃ…ないけど…こんなワインは、初めて…」
「そう……特別製だからね」
その人が微かに笑ったような気配がした。
「特別製……?」
聞き返した私の手から、ワイングラスがすい…と、引き抜かれる。
「…ねぇ、私の顔が見える?」
私は間近に迫ったその人の顔に、目をこらした。
「……少しなら」暗闇に目が慣れたのかもしれない。その人の顔がなんとなく見えてきた。
きれいな細い金髪に、深い碧色の目……それに、真っ赤な薄い唇……なんて、綺麗なひと……。
「私を……どう、思う?」
「……綺麗だなって……」
私が答えると、その人は「そう…」と、また哀しげに口にした。
「でもこれは、魔ものの持つ独特の美しさなのよ…」
「えっ…魔もの、って…」
突然のそんな告白に声をつまらせる私の顔に、さらにその人の顔が迫った。
「キス…して、あげる」
「えっ…でも…」
「いいの…黙っていて…」
私の頬をはさむようにその人の氷のように冷たい両手が触れる。
目の前でその人の長い金色のまつげが閉じられ、薄く赤い唇が近づく。
「ん……」
やわらかな唇の感触、上唇をなめる濡れた舌に混じり、下唇に小さな痛みが走った。
「痛……」
思わず声をあげると、「……ごめんなさい、許して」と、その人は唇を離した。
「どうして、あやま……」
途中まで聞きかけて、私は口を覆った。
その人の口の端に2本のとがった牙が見えていた。
「あっ…牙…が……」
「だめ……見ないで。帰って……そして、もう二度と、ここへ来てはだめ……」
「だけど……」
「言うことを聞いて……。私のように、なりたくなかったら……」
「えっ…?」
「…さぁ、お帰りなさい…。扉まで、送るわ」
私の手を取り立たせてくれると、ゆっくりと広間を導いてくれる。
「あの……私…」
「さよなら……。これは、今夜の思い出に……」
その人が扉に絡みついた薔薇のひとつをぽきりと手折って、私にくれた。
細い美しい指に棘が刺さって、血がつと流れた。
「あっ…大丈夫? 血が…」
「気にしないで……すぐに、癒えるから」
その人が微笑をつくる。
哀しげで、けれど美しい微笑だった……私は、さっきのその人の言葉を唐突に理解した。
『……これは、魔ものの持つ独特の美しさなのよ……』
あまりに綺麗なその人からもらった深紅の薔薇を見つめながら、
ここに来ることは、もう、二度とないだろう
と、私は、思った……。
ふと振り返ると、館は新しいものの侵入を拒むように、濃い霧に包まれて門のありかさえもわからなくなっていた。
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