アクアの記憶

 

暑い……。

立ち止まり額に手をかざして、まぶしげに目を細める。

真夏の射るような強い日差しが照りつけている。

「暑いなぁ……ほんとに」

だらだらと続く坂の途中までのぼってきて、千絵子は呟いた。

うらめしげに見上げた坂の上には、陽炎がゆらゆらと立ちのぼっている。

はぁはぁと息をつきながら坂をあがる。

この坂をあがりきると、海が見える。

千絵子は、坂の上からふいにひらける海が好きだった。

そのためになら、このゆるゆると長い坂もがまんして歩くことができた。

……海が近くなると、潮の香りがほのかにただよってきた。

寄せては返す波の音も、かすかに聞こえてくる。

千絵子は、少し早足になった。

「海…もうすぐ、あの海が見える!」

走り、たどりつく、目の前が一気にひらけ、真っ青な海が広がる。

「き…れい!」

両手を横いっぱいに広げ、思いっきり深呼吸をする。

しょっぱい海のにおいが体中にしみ渡る。

はいていたサンダルを脱ぎ捨て、坂を駆け下りる。

アスファルトの熱さを素足に感じる。あの海辺の砂はもっと熱いはずと思ったら、知らずにわくわくしてくる。

踏み切りを抜け、階段を飛び降りて、砂浜に着地した。

「うっわ…やっぱ、あっち!」

砂にめり込んだ足をあわてて引っこぬく。

今年の夏は、早かった。だから、こんなに日差しがきつくてもまだ海開きは済んでいない。

オンシーズンでも人影がまばらな千絵子のお気に入りの海辺には、人の姿は見あたらなかった。

「今年も、一番乗り…っと!」

千絵子が声をあげた時だった。

「一番じゃないよ」

ふいに、声が聞こえた。

千絵子は驚いて振り返った。

ここで、シーズン前に他の人と会うなんてことはめったになかった。

「僕の方が、先だったよ」

そう言ったのは、淡い栗色の髪がとてもやわらかそうな少年だった。

「……誰、あなた?」

千絵子は、ぶしつけにたずねた。せっかくのいい気分をぶちこわしにされたことで、ちょっとおもしろくない気もちもあった。

「…僕? 秘密だよ」

少年が笑う。

「なによ…」

千絵子は、ずんずん海へと向かった。むしょうに腹がたっていた。自分の雰囲気をこわされたばかりか、からかわれた……「なによ、なによ!」千絵子は口の中で何度もくり返した。

「なによ…っ!」

力まかせに踏み出した足が、海水につかった。ぴちゃり…と、水しぶきがはね上がる。

「あっ…まだ、だめだよ! 海に入っちゃ…」

少年が追いかけてきた。

「いいのっ!」

つい怒鳴った。少年がみるみる泣きそうな顔になる。

「…な、なんで、そんな顔するのよ…」

「だって……」

と、少年が上目づかいに見る。

「……ああ、もう! めめしいなっ、ほんと!」

千絵子は少年から視線をそらして、とすんと砂浜に座り込んだ。

「……海、これ入れるんだよ」

「これ…って、なに?」

興味がわいて、そむけていた顔を少年に向けた。

「これだよ。これがまだだから、海に入っちゃだめなんだ」

そう言って少年が差し出したのは、深いみどり色をしたラムネのびんだった。

「……なに、それ? ただのラムネびんじゃない……」

はぁあ…とため息をつきかけた千絵子の目の前で、少年が、「ちがうよ、よく見てて」と、ラムネのびんを海にさかさにした。

途端に、揺らめく水の色がぱあぁ……っと、海の上を走って一息に広がった。

「な…なに、今の…?」

海がゆらゆらと揺らめく水の色に一気に染め上げられていくのは、あまりに綺麗で幻想的で、とても現実だとは思えなかった。

「今のは、アクアの記憶だよ」

「アクアの記憶? なにそれ?」

「この海の記憶……千絵子、忘れちゃったの?」

「千絵子って……名前、なんで知ってるの?」

千絵子には、まるでわけがわからなかった。

「……思い出してよ。ほら、千絵子はどうして、この海が好きになったの?」

「どうして……?」

記憶のかけらをたどると、にわかに思い出すことがあった。それは遠い昔……千絵子がまだちっちゃかった頃、近所に住んでいるお兄ちゃんがいた。お兄ちゃんは頭がよくて、笑わすのが得意で、小さい千絵子とよく遊んでくれた。

「ねぇ、ちぃちゃん。僕、ひっこすことになったんだ」

ある日、この海で、お兄ちゃんは唐突に言った。

「ひっこすって? お兄ちゃん、いなくなっちゃうの?」

「そうだよ。ごめんね、ちぃちゃん」

「やだ! やだやだやだよ! どっかいったら、やだ!」

泣きわめく千絵子の頭をなでて、お兄ちゃんは、「それなら、この海に、覚えていてもらおうか」と、言った。

「海に…?」

「そう。海にね、僕とちぃちゃんのことを、覚えててもらうんだよ」

「……海が、覚えててくれるの?」

「うん、きっとね」

お兄ちゃんは笑顔でうなづいて、手に持っていたラムネの一口を飲み干した。

「……もしかして、お兄ちゃんなの?」

少年は、「思い出してくれたんだね?」と、笑った。

「お兄ちゃん!」ずっと忘れていた記憶だった。お兄ちゃんがいたのは、まだほんとに千絵子が小さい頃だったし、何よりお兄ちゃんの言った言葉の意味が、千絵子にはよくわからなかった。ただ、この海を好きだっていう記憶だけが残っていて、ひとり暮らしをはじめてこの地を離れてからも、毎年来ていたのだった。

抱きつこうとする目の前で、少年の姿が薄くぼやける。

「よかった…思い出してくれて。海はね、ちゃんと覚えてたよ。君たちの言ったこと……」

「えっ…君たちって…」

少年の姿は消え、とさっとラムネのびんが砂浜に落ちた。

かりん…と、落ちた拍子に中のびー玉が音をたてた……。

 

千絵子とかつてのお兄ちゃんが海で何年ぶりかの再会をしたのは、それからすぐのことだった。

 

                                    

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